乾 一心 熱い想い
略歴
昭和57年4月
島根県益田東高等学校 バスケットボール特待生として入学、卒業
昭和60年4月
関西国際空港産業(株)入社
昭和63年4月
父の会社の代表取締役就任
昭和64年3月
倒産
平成元年
スクラップ業を開始
平成2年
法人化する
平成6年
主人と2人で花と野菜の農家を始める。石見農園
(株)花満市場取引開始
平成13年
主人がガンで長期入院。道の駅来夢とごうちで花の販売を始める。
石見農園として中央卸市場買参権を頂き、法人を休業する
平成26年8月
主人が死去
平成27年5月
有限会社いわみ取締役を従業員と共に再スタート。
なぜ、いわみさんは、安芸太田に来たのか?
・・・ よく聞かれます。
乾 一心 島根県益田出身。1966年生まれ。
小学校3・4年生までは、従業員もいるほど、父の庭石屋(造園業)の事業も成功して、お嬢様として育ててもらっていました。
あるとき、父が仕事でクレーン車での事故を機に経営が傾き、家を点々をする生活を送るようになります。
そんな生活が始まったころから、唯一、学校から帰宅時間を遅くする方法として、バスケットボール部に入部。体格の良さを活かし、メキメキと成長し、注目を浴びるまでになる。
日本体育大学で教員を目指すも、父の事業の不振もあるが、一番は自身の怪我で、バスケもできないような教員はと・・・教員志望を諦める。
を諦め、進路指導の先生に、「今ある求人の中で一番給与の高い職場を!を紹介してもらう。
「まだ、過去に合格した者はいないが」と紹介されたのが「関西国際空港」で、見事合格。 高卒から、体育会系の根性で、3年間勤め同期生よりも出世するようになります。
そのころ、両親の「ちょっと保証人になってくれん?」から始まり
実印や、印鑑証明を渡したころから、会社へ、変な電話がかかってくるようになりました。
実家へ帰ってみると、どうも雲行きがおかしい・・・
そうしたら、私が、どうしたらいいのか・・・
父親に、お前が会社の代表者になってくれたら、銀行から借り入れもできるかもしれん。親がそういうので、父の事業の代表者になる。
本気で立て直しを考え、勤めていた空港を辞め、再建できると思い実家に帰ってはみたが、
実際に銀行から融資を3,000万受けるも、焼け石に水。
総額1億3千万で、倒産。当時の代表者は私。
親は、夜逃げして逃げた。
その時、私は、バスケの体育会系の気持ちがあり、逃げたくなかった。
そして、事務所で、一人ひとりの債権者と、話をしていく。もちろん、893屋さんも。。。
たった1億3千万じゃないか~。
21歳の私からしたら、とんでもない大金で、自殺しようとも考えていたころ
1億3千万のことを軽く言ってくれた!たった・・・
たった1億3千万なんだ~っと思えるようになった。
債権者にも、僕が一緒におってあげるけー大丈夫よ~って言ってくれて、私に指南してくれました。
893屋さんには、こうしなさい。この人には、こうしなさい。
これは、和議の申請をするか、破産の申請をしましょう。
個人は、住民台帳に載るから破産してはいけない。法人は、破産したらいいじゃないか~
そういうアドバイスをくれて、立ち直らせてくれたのが、今の主人でした。
もちろん、私21歳、そのときには恋愛感情なんて全くなく・・
所持金¥3,640 子犬3頭からのスタート
そのとき、引き継いだ事業は、中古自動車販売業と、廃品回収業でした。
事務所でポツンと残された、廃材の中から唯一金になったのが、電線でした。
電線の銅線を取り出す広大な作業スペースを探していたところ、安芸太田町の小板にたどり着きました。
その時の所持品は、3,640円と子犬3頭でした。
それから毎日、朝から晩まで、銅線を取り出す作業をしながら、乾が、債権者と話をあらかたつけ、裁判も終わったところで、親が帰って来た。
しかし、実印を渡した私も悪いかもしれないが、ほどぼりが冷めて帰ってくるような親はつまらんと思い、段々と疎遠になる。
その後、支えてくれた、(主人)乾と結婚。
それを機に、子供に後ろ指さされるような仕事はしたくないと思い、主人に「お前は何がしたいんだ!」と聞かれ、私は花づくりがしたい!と思い、
生花と、野菜の生産を始める。
農家として、再スタート!
ある日、近所の方から、お花に供えるカスミソウを買ってきれくれないか?と頼まれ、毎日市場に出荷していたので、仕入れて届けてあげると、大そう喜ばれた。
交通の便も不便で、買いに行くにも不自由な中、安く届けてもらいありがとう。と、大変喜ばれました。
子どもが小学校1年生に上がるころには、家を建てるぞと目標を立て、冬はスキー場へ勤め、主人には子守をお願いし。
冬のスキー場では、普通の女性の担当する調理場は断り、稼がないといけないから、常務と直談判し男性と同じ場所にしてくれと頼み、「ならリフトじゃ」いくか?
行く!と答え、当時女性のリフトマンは居ませんでしたが、広交観光が初めて女性のリフトマンを採用しました。
そこから、男と同じ仕事をし、3年後に家を建てましたが、
翌年に主人が大腸癌になり入院することとなり、市場への出荷ができなくなりました。
主人が、入院し、子供を3人抱え、朝から市場へ行き、小学1年生の長女に、「赤ちゃんが泣いたらミルクあげて」とお願いし、市場で仕事して朝7時の学校までに戻り、という生活を最初はやりましたが、子どもの為にならないと感じてきました。学校に行かせれない日も出てきました。
そんな中、人の多いところ?っと考えたところ、役場しか思いつかず飛び込みで、花を売りに行きました。
その日は、みんないい人なので、買っていただいたものの、「ちょっと乾ちゃん」って呼ばれ「規則で、役場内では売ったらいけんのんよ~」って知らされ、道の駅で売ったらいいよーって、道の駅を紹介されました。
そこで、売り出したのが花屋の始まりです。

インター下りてすぐという立地も効して花が売れました。
そのころ、道の駅建て替えがあり、現在のチャレンジショップの場所で、建物は無く、運動会で使うテントで花を売っていましたが、花屋さんは、食べ物じゃないから、道の駅前に出店していいよ。って話になり現在の位置に店を構えました。
それから、めちゃめちゃ忙しくなりました。
当初は、土日営業でした。
それ以外は、花を生産していましたが、平日、柵で仕切って休日にしていましたが、道の駅に来店されるお客様に、ありがたいことに「あの商品を売ってほしい」と、言っていただくようになり、週1日の火曜日を定休日にして、市場から手伝いを1人来てもらうのが始まりで、だんだんスタッフも増え、今のメンバーが固定してきました。
それから、葬儀の花もやり。
益田に居た頃の同級生が、花屋さんで「ちょっと葬式の花教えてよ」って頼み、快く教えてもらい
よし、これでできる!
とJAの葬儀部門に頼み、地元松原の方の推薦をいただきJAの葬儀に花を卸させていただくようになりました。
そこから、(株)フレスタの系列のレッツさんからも花を卸してほしいと頼まれ、その後、(株)ポプラにも卸すようになりました。
ドン舞い神楽ちゃんの始まり。
平成26年6月に、一時の売り上げのピークから、売り上げが下がり、
そろそろ冬を乗り切るのがしんどくなり、何か始めないといけない
と思うようになり、食品と同時に
当時ホテルなどに正月飾りとして活け花と一緒に、小さな獅子舞もオブジェとして納めていました。
それが、めでたいので非常に喜ばれ
「また来年も、獅子持ってきてね」と、リクエストをいただくようになりました。
そのときに、ホテルお客様や観光客の方々に、「これが神楽人形だったらいいのにのぉ~」と、意見もいただいていました。
ということは、オブジェとても好評価をいただいているのなら、神楽人形を作ったら売れるんじゃない?と思うようになりました。
このことを主人に話すと、「お前らは口ばっかりじゃの~。計画表を出せー!」って言われ 家に帰り「夫婦の間で、物事やるのに計画表なんて、そんなの要るんねー!なんちゅうこともない!」って言い返し(笑)
くそーっと思い、分厚い計画表(なぜ、この神楽人形が要るのかと想いをつづった物)を作り、
よし、これならいい!と主人の許可を得て
食べ物は、保険所の許可を取るぞ。2類じゃだめだ、1類を取るぞ!と奮起し、 1類取るためには、こうしないといけない。など、行動に移しました。
神楽人形は、獅子舞の人形を買ってきて、事務所で、みんなで分解し「これがどうなれば神楽人形になるか考えろ」
そして、主人が「これが売れたら1億だな」っと一言。
1億になったらいいな~。って冗談で思っていたが、主人も乗ってくれて。。。。
そんな矢先、 その2か月後の8月、主人が急性心筋梗塞で、息を引き取りました。
その後しばらくは、私もいつもの元気を無くしていました。
食品部門は、もうすでに機材も入っていたので進めましたが、神楽人形に関しては、成功するか私も不安でしたので後回しになっていました。
そんな中、亡き主人が初めて行ってこいと勧めてくれた商工会の研修会で、子どもが同じ保育園だった商工会の指導員さんと再会しました。
そこで、神楽人形の計画を相談をしました。
「こうこうこういう計画があってね~、でも主人が死んだんよ~」と、そのとき話をし その後、春になりその職員さんも転勤になり、後任の若手の職員さに引き継ぎをお願いしました。
その彼の仕事が、私の想いと非常にマッチし、いろいろ仕事に関して相談できる仲になりました。
彼との出会いが、私の考え方も変え、普通は伏せておきたかった過去のことも、こうして話すようになりなりました。
彼の指導力(伴走型支援)の素晴らしさが、私の心をうつことにもなりました。
人を育てることに関しても、主人から教わりました。
従業員を一番に考えなさい。
例えば、アイスクリームでさえも、私は、我が子に食べさせてやりたいのに、まずは、従業員からだ!順番が違う。と主人から教わりました。「お前には、子供がたくさんいるんだよ」と。
そうして、主人が亡くなって残ってくれた仲間達と、平成27年春「いわみを法人として再起しようと思うけど、みんな役員になるかならないかどうする?」っと話し、
「私は、居ない方がいいからみんなで考えて」と託し、翌朝、全員が「役員になります」と言ってくれて、新たないわみが立ち上がりました。
全員が、従業員だけど、取締役でもある。
こうして、バスケで鍛えた負けん気で、私は、今日まで頑張ってきました。
これから、若いメンバーが、共に助け合い、教え合いながら新たな有限会社いわみを作り上げていくことを願っています。
次の時代を担う若者に、私が残していけるものを考えながら・・・・。